「本サイトのコンテンツには、商品プロモーションが含まれています。」

キングダム

キングダム司馬尚の最後は?史実だといつ死亡する?

キングダム司馬尚の最後は?史実だといつ死亡する?
Pocket

今回のテーマは、キングダム司馬尚の最後は?史実だといつ死亡する?と題してお伝えしてまいります。

趙国の青歌城の城主である司馬尚は、あの李牧が三大天に推薦するほどの武将です。

しかし趙国の王族の腐敗ぶりや政権中枢の派閥争いを嫌い、時には病と偽ってまで青歌城を出ようしません。

ただその実力は、秦国の趙攻めに呼応し国境を侵したと思われる燕国のオルド将軍率いる2万の軍勢を5千の手勢のみで瞬時に一蹴するなど本物であることは実証済みです。

そんな司馬尚も李牧との盟友関係を大切にしたがために、李牧の運命に引きずられてしまう所があるようです。

今後の秦国統一戦争との戦いの中で不世出の名将である司馬尚がどのような最後を遂げるのかを見ていきたいと思います。

それでは、キングダム司馬尚の最後は?史実だといつ死亡する?早速進めてまいりましょう。

 

キングダム司馬尚の最後は?

  • 趙の武将、司馬卬の父、李牧とともに名将と謳われた。
  • 紀元前229年、斉との連合も情報が漏れ、旱魃や地震災害につけこまれ、秦に侵攻された…秦によって買収された悼襄王お気に入りの重臣郭開の讒言により秦軍を撃退し続けた李牧が殺された。また、司馬尚も更迭された

司馬尚に関する史実での記載はこれくらいでしょうか?

しかしこのわずかな文面からでも司馬尚が趙国末期を李牧と共に支えた名将であった事は伝わって来ます。

そんな司馬尚の功績と最後を考察して行きたいと思います。

 

合従軍で失脚した李牧を匿った司馬尚!

紀元前241年に勃発した秦国1国を狙った戦国七雄他国による合従軍の侵攻!

世に函谷関の戦いと称される戦いで合従軍を率いた総司令はキングダムと同様で楚の春申君です。

しかしキングダムの中で描かれているような李牧が黒幕であったと言う事実は全く存在していません。

更に函谷関を抜けないと悟った合従軍が伏兵を動かして南道から蕞”攻めたことも史実では記載がありますが、兵を率いたのは李牧ではなく龐煖が総大将を務めているのです。

そうなると李牧が合従軍の敗北により失脚したと言う事実も無いことになりますので、そこで司馬尚が匿ったと言う史実も架空のものだと思われます。

この頃の李牧は、北方の匈奴からの守りの要として雁門に駐留していたことは史実で明らかになています。

李牧はここでも知将として防衛戦争に徹した戦いを展開し…趙・匈奴の戦いで十数万の騎兵を退ける功績を上げているのです。

しかし戦死者を多く出すことを嫌った李牧は守りに徹し過ぎたようで、趙王から臆病者のレッテルを張られ一時更迭されたことがあるのです。

しかし李牧の後任者が匈奴に対して防衛ではなく長城を超えて侵略を旨とした戦いを進めたため、逆に国境を大きく侵される事態となり直ぐに李牧が返り咲くことで落ち着いたようなのです。

もしかしたらこの失脚の時に同じ北部の城を守っていたよしみで、司馬尚が李牧を匿った事があったかも知れませんね。

 

宜安・肥下の戦いで腹心の武将を派遣した司馬尚の思惑は?

次に史実で李牧の名前が挙がってくるのは、キングダムでも描かれた秦国六将桓騎将軍が敗れ戦死することになる宜安・肥下の戦いとなります。

従って黒羊丘や、史実でも名高い秦による鄴攻めや平陽の戦いに李牧は姿をみせてはいないのです。

むしろ平陽での惨敗を機に趙の中央軍の人事が大きく動いたのではないかとも考えられ、いよいよ李牧が秦国を負け戦に導くことになって行くことになるようなのです。

そして李牧の盟友である司馬尚は宜安・肥下の戦いに青歌軍の精鋭部隊を投入することになります。

特に大きな働きをした武将は太行山脈北側の狼孟城で、秦国北東部軍20万人を足止めした青歌軍第一将のカン・サロと猛将ジ・アガではないでしょうか。

それでもこの時にも司馬尚自身が青歌城を動くことは有りませんでした。

 

番吾の戦いで青歌本軍を率いて司馬尚が登場した事情を考察?

宜安・肥下の戦いに続いて李牧が秦国に圧勝した番吾の戦いは紀元前232年で肥下の戦いの翌年に勃発しています。

そこでの李牧は秦王嬴政の中華統一という野望を完膚なきまでに打ち砕くべく策を弄していたようです。

まだその詳細はあきらかになっていませんが、李牧が率いたこの戦いでは秦国が番吾と鄴に大軍を置いたため2方面戦争を余儀なくされたのではないでしょうか?

その為に、李牧の他に大将軍としての力量を持つ将軍として司馬尚率いる青歌本軍に白羽の矢が立ったのではないかと思っています。

いづれにしてもこの番吾の戦いで趙国軍は圧勝しただけに止まらず過去に秦国に奪われた領土の奪還にも成功することになって行くのです。

 

キングダム司馬尚は史実だといつ死亡する?

司馬尚が歴史の表舞台から姿を消すのは先ほども見たように紀元前229年に李牧が死亡した後の事になります。

その後の司馬尚がどのような道を歩んでその生涯を全うしたのかは史実には記載がありません

従って、今後のキングダムの中で司馬尚の最後は考察に頼るしかありませんので、ご承知下さい。

 

趙国の滅亡の経緯から王を見限る司馬尚?

紀元前229年に何があったのでしょうか?

ひと言で言うと信じがたい史実ですが李牧の失脚と刑死という驚愕の出来事になります。

大国秦の統一戦争において、秦軍の侵攻を食い止め敗北に追い込んだ武将は2人しかいません。

趙国の李牧による宜安・肥下の戦いと番吾の戦いの2連勝、そして楚の項燕による城父の戦いでの勝利…これしかないのです。

その戦国随一の武将を何故罰するのかとも思いますが、李牧の活躍に嫉妬した趙の重臣である郭開の讒言によるもののようです。

そしてその郭開の讒言自体が秦国の謀略である事も伝わっているのです。

この辺りがキングダムでどのように描かれるのかが見ものの1つですが、戦国各国の情報戦の1つとして秦国のスパイである姚賈の暗躍が描かれる可能性があるのではないでしょうか?

いずれにしても李牧の刑死により身の危険を感じた司馬尚も逃亡したと記載されておりそのまま更迭となったようです。

 

英雄司馬尚は趙公子・嘉の代へ向かった?

キングダムでは趙王室の腐敗は李牧を死に追いやった幽繆王の父君である悼襄王の時代からのものと描かれているようです。

愚物として描かれている悼襄王は利発であった皇太子の嘉を嫌い、その末弟で自分の路線を引き継いでくれそうな幽繆王を跡継ぎとして指名した後に急病で亡くなったとされています。

この代替わりで皇太子嘉が善政を敷いてくれると喜んでいた側近たちは、悼襄王の遺言に逆らう反乱分子として態よく一掃されてしまったのです。

そしてその類は皇太子であった嘉にまで及びそうになり、慌てて趙を後にしなければならないありさまでした。

そして趙国から弾かれた勢力は皇太子嘉を擁立して代という国を擁立したのです。

代王嘉の治世は紀元前227年~222年まで…この紀元前222年の代滅亡を持って趙国滅亡と見る歴史家もいるようです。

司馬尚が幽繆王を逃れて行きつく先は、名君の才が有ると言われていた代王嘉の所を置いて他にないのではと思います。

この代の国を紀元前222年に滅ぼした秦の将軍があの王翦の息子で玉鳳軍を率いる王賁であったと伝わっています。

名将と言われた司馬尚の死に場所は、名君とも呼び声の高かった代王嘉の元であったと思いたいです。

実は李牧が代に亡命していたという話までは望みませんが、主君に恵まれなかった者たちの最後が名君嘉の見守る中であって欲しいと願ってやみません。

 

まとめ

今回は、キングダム司馬尚の最後は?史実だといつ死亡する?と題してお伝えしてまいりました。

キングダムでは主君に恵まれなかった英雄たちとして李牧と司馬尚の最後が描かれそうな気配ですが、実際のところはこの時代に有って大国秦に局地戦はともかく国として勝てる者など存在していなかったようです。

圧倒的な国力の差と時代のうねり、これに勝てる者など古今東西の歴史を問わず存在しえないのではないでしょうか?

しかし滅びゆく者の美学もそこには絶対にあるのだと思います。

そして趙国の最後の王が幽繆王などという呪われた名前であることも恣意的な勝者の歴史を感じさせます。

李牧の志半ばの魂が、司馬尚とともに名君嘉の元で救われることをキングダムにはお願いして最後にしたいと思います。

それではキングダム司馬尚の最後は?史実だといつ死亡する?これで終了とさせていただきます。

最後までお読みいただきありがとうございました。

テキストのコピーはできません。