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キングダム李斯とは誰か徹底解説?功績や史実との違いを調査!

キングダム李斯とは誰か徹底解説?功績や史実との違いを調査!
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今回のテーマは、キングダム李斯とは誰か徹底解説?功績や史実との違いを調査!と題してお伝えしてまいります。

漫画キングダムでは秦国の”法の番人”として極めて優秀な文官として登場する李斯!

その李斯は、実は史実では統一秦帝国で宰相まで昇りつめた男なのです!

漫画でのイメージが先行し単なる一文官と見られがちの李斯ですが、本当は中華を最初に統一した帝国である秦の立役者でもあるのです。

今回の記事では漫画キングダムに描かれた李斯の姿を紐解きつつ、史実を確認しながらその李斯の実像に迫っていきたいと考えています。

それでは、キングダム李斯とは誰か徹底解説?功績や史実との違いを調査!早速進めてまいりましょう。

 

キングダム李斯とは誰か徹底解説?

では最初に漫画キングダムで描かれる李斯の姿を見ていきましょう。

キングダムという物語が天下の大将軍を目指す下僕出身の信を主人公にした漫画ですので、戦場の場面が多く文官の李斯はどちらかというと地味な存在に見えるかも知れません。

でもキングダムという漫画が、史実に沿って描くことを旨としており、王宮での政治活動や権力争い等もダイナミック且つ知的好奇心を十分に満たす作品となっているため李斯の活躍も興味深く読み進める事が出来る作品となっています。

では見ていきましょう。

 

キングダム李斯は呂氏四柱の1人として登場!

秦軍総司令の昌平君、中華最強武将の蒙武、昭王の時代の宰相蔡沢と並んで呂氏の“四柱“の1人として李斯は登場しました。

呂氏とは秦国では秦王に次ぐ相国の位につく呂不韋の事!

日本でも”奇貨居くべし”という教訓とともに知られた存在ですが、中国では始皇帝と並んで知らぬものの無い英傑の1人です。

しかし漫画キングダムでは主人公の信とその親友の秦王嬴政の敵役として描かれるため気の毒な部分もあります。

史実では、楚・趙・魏・韓・燕の5国合従軍に対して、史実で総指揮を取って退けたのは呂不韋だと考えられているのです。

いずれにしても、キングダムでは呂不韋配下の法律学のエキスパートとして登場するのが李斯となります。

 

呂不韋の失脚で牢に繋がれた李斯!

史実では秦王嬴政の実の父親という説まである呂不韋ですが、キングダムでは王の席と狙う姦物として描かれています。

故に秦王朝の転覆を狙った王弟成蟜の反乱や他国者の嫪毐の反乱も裏で呂不韋陣営が糸を引いていたように描かれています。

そしてその嫪毐の反乱が秦王嬴政と呂不韋の天王山、つまり権力争いの最終局面として描かれたのです。

一方では王都咸陽を巡る戦いが行われる中、秦国旧王都の雍で秦王の加冠の儀めぐる権力の争奪戦が行われていたのです。

秦王嬴政は、戦争の世を終わらせ中華最初の王となり”法による支配”を進めることを標榜します。

一方の呂不韋は戦争で戦争を終わらせるなど言語道断、貨幣経済発展による各国の調和を打ち出したのです。

この結果は嫪毐の反乱における咸陽の攻防戦に委ねられ、結果は軍総司令昌平君の寝返りなども有り秦王嬴政が勝利し呂不韋は失脚するのでした。

この呂不韋の失脚に伴い、最後まで謀略を共にした李斯だけがお縄となり牢に繋がれることとなったのです。

 

秦王嬴政の法治国家に不可欠な李斯!

呂不韋の失脚により名実ともに秦王嬴政の元に一本化された秦国はその公約通りに中華統一戦争に乗り出すのです。

そんな折、秦国の中華統一理論に反対した戦国七雄の五か国が合従軍に唯一加わらなかった斉の王建王が秦王嬴政を王都咸陽まで訪ねたのでした。

王建王は同じ戦国の世の王として、中華統一に乗り出した秦王嬴政の真意と覚悟を確かめに来たようです。

そしてそこでも標榜したのが加冠の儀の時と同様”人の本質は光”であること、そして人による支配から法による支配つまり”法治国家”を築く事を標榜したのです。

その考えに感銘を受けた王建王は斉の国王として秦国に降伏宣言したのでした。

と、そこまでは良いのですが秦王嬴政の側近には、武骨な丞相昌文君しかおらず法に関しての知見が全く無かったのです。

そこで白羽の矢が立ったのが牢に繋がれていた李斯でした。

李斯、復活の時をむかえるのです。

 

学友の韓非子と李斯!

李斯は決して裕福な家柄に生まれたわけではありませんでした。

そこで立身出世の為に一念発起したのが学問だったのです。

弟子入りしたのは、李斯の生まれた楚の国の法家の大家”荀子”の元で学んだのです。

荀子は儒家の孟子の性善説に対して性悪説を唱えた事でも知られています。

李斯はその荀子門下に入る試験で1問しか間違えなかったというトップの成績で入門し以来常に1番の成績を修めていたのです。

そこに鳴り物入りで入って来たのが、入門試験全問正解で且つ韓王室の公子という韓非子でした。

 

2人は切磋琢磨しながらも常に1番は韓非子で2番は李斯という関係のまま卒業を迎えたようです。

その後の2人の運命は対照的でした。

この辺の経緯は是非キングダムをお読みください。

結果として、韓非子は法家理論の完成者と言われる著作を世に残し、李斯は法家の実務の完成者として統一秦国の宰相まで昇りつめるのでした。

ここで一つの悲劇が生まれます。

秦王嬴政は法治国家を目指すものとして韓非子の著作を読み感銘を受けていたのです。

そして秦王嬴政に乞われるまま韓非子は法律顧問として秦国を訪れる事になるのですが…?

法家の俊秀2人は戦国時代の諜報活動の渦に巻き込まれる形で悲しい別れを向かえるのです。

韓王室の公子である韓非子は秦国の牢獄の中で服毒自殺を遂げることになってしまったのです。

 

キングダム李斯の功績は?

李斯は史実の中で多くの輝ける功績を残しているのです。

しかしキングダムではエリート官僚には間違いないのですが、今のところこれと言った功績は上げていませんね!

ここでは史実の李斯にスポットを当ててみたいと思います。

 

嫪毐の反乱に関連した諫逐客書の名文!

紀元前237年に起きた嫪毐の反乱!

嫪毐という人物についてはキングダムは概ね史実で伝わる通りのキャラ設定をしているようです。

ここでの問題は極刑に値する秦王への反乱を起こした嫪毐が他国出身であると言う事です。

これにより秦国内に他国者が立身出世することへの反発が激しくなったなのです。

このため逐客令という”他国人追放令”が発布される事態にまでなるのでした。

出身が楚の国である李斯もこの事態を苦慮したのでしょう、”諫逐客書“という嘆願書を秦王嬴政に提出し逐客令の撤回を願い出たのでした。

この諫逐客書“という文が後の”文選”にも納められるほどの名文で、この名文にも感じ入った秦王嬴政は逐客令を廃止したのでした。

 

封建制に反対し郡県制を推し進めた李斯!

歴史は、どの国でも古くは封建制という土地を媒体とした主従関係から支配関係が始まることを示しています。

古代中華でもそれは同様で、春秋戦国時代の前代である周の王朝も当たり前のように封建制度でした。

秦国統一王朝でも最初は封建制度を主張するものが多くいたのですが、李斯はそれに真っ向から猛反対したんです。

そして周がなぜ滅んだのかという事を理路整然と説明をし、今でいえばガバナンスの強化がはかれる郡県制を基盤とした中央集権国家というものを取り入れて行ったのです。

ビックリしませんか…これは紀元前220年頃の話なのです!

 

度量衡の統一という難事業をやり遂げた李斯!

また、李斯が成し遂げた大きな政策の成果として度量衡の統一があげられています。

度量衡とは税やお金そして土地の制度などのために長さ(度)体積(量)重さ(衡)の単位を統一するというどこの国でも難事業とされて来た制度です。

しかも李斯は戦国七雄と呼ばれた敵国を平らげて間もない中で、文化も歴史も考え方も全く違う者達を制してそれを成し遂げたというのですからその功績は推して図るべしでしょう。

当たり前ですが、公平な裁きを必要とする法治国家では無くてはならない制度の1つでしょう!

 

李斯は焚書坑儒の実行者?

李斯が国家統治に辣腕を振るっていたころの中華では、いわゆる諸子百家という数知れない思想体系が存在していました。

その中でも李斯が学んできた法家と中華の主流を行く儒家、更には道家思想と言ったものが大きく対立していました。

まずは性善説と性悪説…①人は生まれながらにして善か悪かという問題。

更には②支配(統治)の主体が何かという問題が大きいでしょうか?

①は…法家は”人は悪”故に法で是正する…悪とは今の法律にも繋がるような”知らない”という事も含むようです。

儒家は”人は善”故に信じることがそれを更に磨くことになると言う道徳思想に繋がって行くのです。

皆さんはどちらが正しいと思われますか?

性善説を正しいと考えられた方は次の理論展開ではどうでしょうか?

②…法家(性悪説)は、人は過ちを犯す者ゆえに法を定め統治する。

儒家(性善説)は、徳を持つ者が統治すれば万事うまくいく…徳とは天が決める物でいわゆる天命思想とされるもので、中華で行われた王朝交代は徳を失ったものから徳を持つ者へ天が示した易姓革命という考え方に繋がって行きます。

簡単な問題ではない事が分ると思います。

ただ法家の大家である李斯は、儒家の考えを空論と考えており…目に見えない徳や天などというものが人を不幸に陥れる元凶だと考えていたようです。

そして歴史に悪名を残す思想弾圧に出たのです。

 

始皇帝の世継ぎ問題が元となり失脚した李斯!

この時代の偉人は得てして不幸な末路で終える方が多いように思います。

紀元前210年7月、始皇帝崩御。

始皇帝の遺言は太子である扶蘇を後継者とするものでした。

これに対し宦官の趙高と李斯はともに偽の遺言を作成し末弟の胡亥を2代皇帝に即位させるのでした。

これにより優秀な扶蘇は自決し、二代皇帝で愚かな胡亥は遊び惚けた上にそれを戒める李斯を捕えた上に一族郎党根絶やしとしたのです。

紀元前208年の出来事でした!

 

キングダム李斯の史実との違いを調査!

では最後、キングダムの李斯周辺の出来事について史実との違いを見ていきましょう。

キングダムに描かれていない李斯の若い時の話などは若干の推定が含まれるかもしれませんがご容赦ください。

最初、李斯は生まれの楚の国地元で役人になったようです。

そしてトイレにいるネズミと米蔵にいるネズミを見比べて、住む場所つまり環境が全てだと気づいたと言います。

そして役所を辞め荀子の学び舎で学ぶことになるのです。

 

呂不韋の食客を足掛かりに秦に仕官した李斯!

キングダムでは呂氏四柱として登場しましたが、最初は呂不韋に食客として仕えたようです。

その後やはり優秀だったのでしょう、才能を認められ呂不韋の推薦を受け秦王嬴政の近侍になったと言うことです。

ここが少し違っていて、李斯は秦王の敵と言う立場になったことは無く最初から後の始皇帝の忠実な部下だったようですね。

 

他国潜入で秦の工作員として働いた李斯の若き日々!

更にキングダムではスマートなホワイトカラー然とした生粋のエリート文官に見る李斯ですが、実は若い頃は危険な仕事もしていたと言う事。

秦王嬴政の命令により、何と他国に潜入していたという007並みのスパイ活動をしていたようなのです。

それも情報収集だけではなく、工作員とも思えるような各国王族と軍隊の離間策などを進めていたというのです。

まるでキングダムに登場する李斯の間者である”姚賈“を地で言っているような活躍ぶりだったようです。

李斯はこれにより功を上げ、客卿と言われる他国出身者でもなれる大臣の席を得たと記されています。

因みに”姚賈も実在の人で、後に秦国の上卿にまで出世いる人だという事も知っておいた方がキングダムを楽しく読めると思います。

 

李斯の学友韓非子の死の真相は?

李斯の功績を見る時に一番悲しい出来事は学友韓非子の死では無いでしょうか?

これについては”史記”と”戦国策”の2つの歴史書で全く別の事が書いてあります。

そして多くの歴史家は“戦国策”を指示している方が多いようです。

史記:秦に法律顧問として秦王嬴政から直々に招かれた法家の天才韓非子、李斯は韓非子が登用された時の自分の立場を危ぶんで秦王に讒言し韓非子を投獄させ毒を渡して自死させた。

戦国策:韓非子が秦王に姚賈の事を卑賎の出で盗人でもあり、趙からも追放された能無し…云々と讒言したが、秦王は姚賈の言葉の方を信じたというお話です。

2つの話しを足して2で割ったような話がキングダムのお話になったのでしょうか?

 

始皇帝の元で宰相に昇りつめる李斯!

キングダムでの李氏は呂氏四柱の時に呂不韋から丞相に押されたところ、秦王嬴政派の巻き返しを受けその位を昌文君に取られ丞相になれなかったというお話でした。

史実での李斯は秦国に仕えた時から秦王嬴政の側近として多くの危ない橋も渡った上に統一戦争でも富国強兵策を推進し大きく貢献、そして順調に出世を遂げ最後は宰相として辣腕を振るったという事でした。

始皇帝の崩御で運命は暗転しますが、そこまでは概ねサクセスストーリーと言って良いのではないでしょうか?

 

まとめ

今回は、キングダム李斯とは誰か徹底解説?功績や史実との違いを調査!というテーマでお伝えしてまいりました。

キングダムでは最初からエリート然としていた李斯は、実は苦労人であり苦学の末に法家の大家となり秦王に仕えては危ない橋も多くわたりという激動の道を歩んできたことが分りました。

いづれにしても李斯は若くして秦王嬴政に側近として仕え、ともに知恵を出しながら激動の人生を歩み統一事業を成し遂げた功労者であることが分りました。

これで、キングダムを見る時の李斯を見る目も今までよりも好感を持って見れそうです。

それでは、キングダム李斯とは誰か徹底解説?功績や史実との違いを調査!これで終了とさせていただきます。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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